J*                                    昭和五十四年七月二十九日 朝の御理解
御理解第九十八節 「心は神信心の定義じゃによって、お伺いする時には、とりわけ          平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願え。」
 とりわけ平気でなければならぬ。心に何のかかるものもない。心に曇りもない。平気な心、平静な心。
 これが神様に向かう為には、そうした心の状態を願わなければならない。とりわけ神様に直接お伺いするといったような心の状態というものは、とりわけ平気でなからなきゃならない。
 自分の信心の状態というものを、自分の心のどれ程しの平気な心、平静な心というものが有るか無いかで分かるんだと。心は信心の定義じゃによってと、ここではこうおっしゃておりますですよね。心は自分の信心のバロメ-タ-というわけ。
 自分の心の状態を見ると、自分がどの程度に神様を信じておるか、神様を頂いておるかという事が分かる。
 昨日は竹葉会の会合でしたから、まあ、皆さんいろいろ話を聞いてもらったり聞かせて貰ったり致しました。素晴らしいお話の中に、合楽でいうなら素晴らしくない話 素晴らしくない話というと、聞こえが悪いですけれども、合楽ではそういう場合どう感じ、どう頂くかという事を、まあ、一つ皆が分かっていない所を代表して質問された感じで、大和さんの奥さんが、こういう事をお伺いしては、といったような前提でお話された。
 「最近もう三回も私の家に、貧しき人を救う会という会ができて,それで物を売りに来る人がある。始めは買わせて頂いたが、あんまり何回も見えるから断ろうと思うけれども、どげんいうて断ったらいいだろうか、いやそれはどういうふうに頂くが本当だろうか」というお話でした。
 皆さんどういうふうに感じられますか。ね、先日からの、人を助ける事が出来るのは有り難い事ではないかと、だから、それが本当に助けられる事ならば、それは千円二千円無駄じぁない事ですけれども、もう、お茶を積んである、それをこれが千円これが二千円といわれる。そのお茶を使ってみると、番茶のようなひとつもでないお茶だと。それでもやはり、それを買わせて頂く事が、人を救う事に繋がる事だろうか、そうする事が信心じぁろうか、ここでは成り行きを大事に大切にするというから、そういう成り行きを黙って買うたり受けたりする事が、成り行きを大切にする事だというような頂き方は本当に人が助かる事の為のものでなけりぁならない。
 だから私は申しました。もう、きつくいうならば、つっけんどうにでもいいから断らねばいけませんよ。又二度と来られんように断らねばいけませんよとお話した事でした                                     どんなに考えても、人を救う会という名称でそういう物を売りに見えるかもしれませんけれども、まさしくそれは「おげ」だという、いうならインチキだと。
 例えばね、それが本当に貧しき者を救う会に資金カンパをしておられるのであったに致しましてもですね、合楽の信心から申しますと、常識とか道徳的とかいうものではないです。常識的とか道徳的な考え方では自分も助からん人も助からんのです。 いうなら超常識です。超道徳なんです。乞食根性というて、例えば人が哀れみをかけて、物を恵んだりやったりするから、いつまでも乞食から脱却出来ない。乞食を三日すりゃ止められないというような事にしてしまう。
 いかにも自分は親切だというような気持ちで可哀相だと憐憫の情をかけたようであって、かえってその事が相手に乞食根性を作らせるような、かえってインチキな心を募らせるような事になり終わってはならんのだから。ね、そういう事は合楽の信心を頂いておる者は皆分かっておろうけれども。ね。本当の合楽の、本当の助かりの合楽理念というものを、その、そういう人達にも教えてあげて、そういう働きから他の本当に世の中の明るくなるとか、為になるための働きに変えられるように、お話の一つでもしてあげられる信心を頂きたいね。というて話した事でした。
 ですからね、場合にはね、道徳的な考え方を本当だと思っておる人は、私のいう事を、信心しておってそんな事でよいかというふうに、まあ、切り返してくるような人もやっぱりあります。けれども本当の本当を私共は極めていこうとするのです。
 それを例えば、最近のいうならば宗教界にです、合楽という信心が金光教、教祖の信心を元にして、教祖がどういう事を天地の神様から御依頼を受けておられるかと。 世の中の難儀な氏子を取り次ぎ助けてやってくれという、取り次ぎ助けてやれれる手立てというものが、どういう人でもが助かられる、しかもどういう人でも有り難くなれれる。どういう人でもその気になれば行じられる。守られるという教えを打ち出しての合楽理念。ですからここでお参りして、本気で合楽理念の勉強をして、それをいよいよ実験して実証していっておる人達は、親先生のいわれる事が本当であると同時にその素晴らしさに、いよいよそれに傾倒してしまう程しの内容を持っておるのが合楽理念ですけれども、まあ、悲しいかな今日の状態ではこの程度であるという事である いや教団、同じ金光教の信心を頂いておっても、合楽はどうも金光教ではないような事を説くというように,まあ、色眼鏡をもって見ると、そういうふうに見えるような向きさえもあるという事である。
 中には、本当のものを本当のものと求めて止まない人達がです、もう本当に合楽の事はまるっきり違った道のようにいうたり、思われたりしていた人達が反対に、いわゆる合楽の信心じぁなからにぁならんというて傾倒して見える人達が、全国にだんだん増えてきたという事は有り難い事だと思う。
 先日も、この前の今年卒業しました先生方の今度のこの前の学院生の人に、合楽の事をいよいよ行き方が悪いように聞いておった。所が自分の班に合楽の修行生が居った。今度七名でしたかね、去年は七名か八名行きましたからどの班にでも居るわけです。だから、もう、合楽のもんと一緒に修行せんならんから今年は止めて帰るという程しの事であった。
 それでここで、丁度梅山君が一緒であったから、そげなこついうてから、来年来るちいうちから、来年も又合楽から何人も修行生が来ますよち、いうたというてそれがだんだん、なら、お付き合いをしておる中に、合楽から送られて来る所のテ-プを聞こうと思わんでも聞かんならん。それから合楽から出版されておる新聞とか本とかを読むようになった。そしてだんだん合楽に傾倒してきた。
 そして合楽の教典神話なんかを送って頂けんだろうかというて、梅山君を通していうて来たから送ってやりました。もう、それからというものはいよいよ合楽ファンになられた。二、三日前もお礼の手紙が、お初穂同封してやって来た。若いながらも、教会長としておかげを頂いとる。
 長い間教会長が居られなくて不在教会であった。そこでおかげ頂いて、少しばかりの信者に対して、毎朝の御理解をどう説いてよいか分からなかったけれども、合楽の信心を頂くようになって、毎朝聞いてもらうお話の材料が出来て有り難いというお礼の手紙が来たんです。
 そういう人が全国にだんだん増えて来た。いよいよ本当な事の本当の事を分かろうとする意欲的な人も、又、本当な事が分かっていうなら本当なおかげが伴うて来る。 私は、これは絶対の理だと。いくら本当だというておっても、本当なおかげが伴わないならば、それはおかしいと。本当な事が分かるだけで人間が幸かというとそうじあない。本当な事が分かったら、いうならば、いうなら幸の条件とというものが、足ろうてくる程しの本当なものでなければ、本当なものじぁないんだと。まあ、私はいっておるわけですけれどもです。
 今日です、そういう意味の事でもなかったですけれども、御心眼に頂きますのが、『もう偉大な人がね、もう何というでしょうかね「ドンゴロス」というですかね、衣とも紫束とも何ともかんともしれんけれど、しかもぼろぼろになった丁度毛布かなんかの汚いのを、こう縫い合わせて作っとるといったようなものを、その威丈高かに身にまとうて、そして槍だけは立派な槍をつきながらね、私の前にこうやって、前の方へ、私を通せんぼするような恰好』で御心眼に頂いたんです。
 ははあ、いうならば、人間がまあ、この世にあるというか、何億年も前からかどうかそんな事は分からんにしても、宗教が宗教としてでけたのは三千年位のもの。三千年間これが本当だ、これが本当だというて来ておった人達の宗教というのは、どういう事であろうかと思うたら、あのう鮑という貝があるでしょう。「磯の鮑の片思い」というあの鮑なんです。鮑を頂いた。御理解はどういう事だろうかと思うたら、この人達は、私がね、今までの宗教以前の宗教だというふうに、今合楽ではいわれとるです。金光教祖はそういう信心を、私共に十全の教えを以て説かれたのです。今まで聞いた事がなかった。今まで分からなかった世界に閉じ込められておった御教えが、合楽によってそれが発掘されて来た。そして十全の教である。片思い。
 天地の親神様を片思いさせておる。半分の教は説いておるけれども、半分の教がないために、いうならば、人間が真実助かる事の出来ないいうならば、偏った教になっておる。これは過去数十年にわたって説かれてきた宗教の総てがそうだという事である。それでもね、そういう頑固なね、いうならば人達によってね、合楽の行手を妨げようとする、そういう事はない。
 昔はキリスト教者ならキリスト教が本当だ、仏教ならお釈迦様がいわっしゃった事が本当だというふうにいうて、それにこう障害があるから、なかなかもって、こう、合楽理念を世に広めるというても、そういうような障害があるからね、なかなか容易なものではない。 いよいよもってそれを押しのかしてゆく、それを貫いて行く為には、いよいよもって力を受けねばならない。教そのものは十全の教であっても、それを伝えてゆくという事は、やっぱり至難な事であるという事です。
 合楽理念をもってする事によってです、いわば今、合楽が実証しとる南米のあたりで、いうならば黒人が助かり、白人が助かり、現地人が助かり、日本人はいうに及ばずというような、言葉も通じないのに、助かって行けれる手立てが、今、実証がなされておるわけですけれども、なかなか難しいという事を私感じたんですけれども、どういう所がそういうふうに反発を受けたり、私の行手を妨ぐ事なるかというとね、私の生き方の中にはね、人間が人間らしゅう生きて、しかも幸になって、嬉しゅう、楽しゅう、有り難う、愉快に過ごさせて頂いて、この世だけではない、それがあの世までも続けていけれるという生き方がね、そげな結構けだらけな生き方があろうことは思われんというわけ。
 勿論、いうとるだけじぁいけん。それを実験実証してゆくと、なる程、この生き方でいけばという事になるだろうと私は思うです。ね、
 浅ましいというておった事が、むしろお礼申し上げねばならないような事。恥ずかしいと思うていた事が決して恥ずかしい事ではない事。合楽理念ではそういう所を喝破しとるんです。その恥ずかしいとか、浅ましいという事の内容というものがです、合楽理念をもってすると、お礼を申し上げねばならぬような事柄の中に、それを説きあかす為には、そういう世界というものは、あってはならないように説いて来たのは過去の宗教です。ね、
 分かりやすく、いうならば、お酒を飲んではいけないとか、生臭けは食べてはいけないとか、もし、食べたり飲んだりしたら、もうそれは、破戒だと。掟を破ったんだというような説き方。むしろ合掌して受けれる事を、それをいうならば、人間が幸になってゆく半分は説いておるけれども、後半分がなからなければ人間の幸はあり得ない。とても人間生身を以ておる者が行じられようとも思われないような、難しい五戒とか、十戒とかいったようなキリスト教では十戒という。仏教では五戒という。
 それこそ生き仏様のような生き方をしておる人でなければ出来ないような、そして事実その生き仏様とてもです、やっぱりそこを通らなければでけないものを、でけたかのようにして、いうならば説いて来たのが過去の宗教だ。ね、
 いうならば難しくもない道を、いよいよ難しゅうして来たのが過去の宗教だ。ね、 私共が、今日の御理解でいうと、平気な心でおれれる事をですね、自分の心の呵責を募らせて行くような結果になってしまうような教えから、私共が脱皮する。そこから脱却さしてもらう。そしてそこに、自由無碍の世界というか、人間が人間らしゅう生きていけれる、いうならば有り難く、一切のものと拝み合っていけれる世界。
 それこそ有り難いものは有り難いもの、楽しいものは楽しいものとして頂いていけれる世界を開いていけれる手立てが【 】以てだから十全の教えという事をいうておるわけです。
 そういう私共のおかげの世界というものがね、いうならば、円いものの半分であったのが、この凡べてがね神愛の中にある事としてそれを私共が道をもって頂き、教えに基づいて頂いていくという生き方を、教祖は説かれた。
 それを金光教自体も、金光教始まって百年、それを説き明かす者がなかった。それを今、合楽では皆さんに日々聞いて頂いとる話がそれなんだ。そういう例えば、素晴らしい、いうならおかげがそれに実証でけれる。しかも行おうと思えば誰でもが行えれる。いうならば、有り難い道をね、お互い勉強しとるわけですけれども。
 そこに自分の心の中に、ひっつかかるものがない。平気な心。自分なああいう汚い事をした。こういう浅ましい心があると思うておった。その浅ましいと思うておったなる程、浅ましい汚い心も、そりぁないじぁないです。けれどもね、私共が恥ずかしくもない事を恥ずかしいと思うたり、ね、恥ずかしくもない事を恥ずかしいと思うたりするその心なんです。
 それを有り難いと受ける時に、私共の心は平気な心、平静な心が生まれてくるのじぁないでしょうか。自分のような人間、自分のような汚い事をしとる人間というて、自分の心の呵責に苦しまねばならんという事は、平気ではないという事。
 そして、そこにはおかげの受けようにも受けようのない心の状態が広がってくる。 そういうものを、一辺一掃して、そして有り難いと気付かせて頂く。有り難いとお礼申し上げねばならん事に気付かせてもろうて、それを実際に、それが本当かうそか実験してみて、なる程、先生がいう通りだというふうに、それを頂き分かってくる所に、私共の心がね、いうならば、平静な心、ひっかからない心、雲一点ない十五夜のお月さんのような曇りのない心。そういう心をもって神様に向かう。いよいよ信心は進んで行くという事なんです。
 但し、今申しますように、私共の日々の信心修行という事においては変わりはありません。それを例えば、ある宗教は、火の行とか、水の行とか、断食行とか、大変難しい修行をもってしたのですけれども、なら、お道の信心によっては、家業の行、そのものを修行とするという事。
 心行も一つにし、行というものは絞ってゆくんだという事。そういう修行は限りなくなされていかねばなりませんし、なしていかねば、又、私が申しますようなね、本当の有り難い心の世界に住む事はでけないわけです。
 今日は、私は平気な心でという事をです、今、教団ではない、合楽で説かれている所の合楽理念は、もう広く深いね、そういう平気な心というものを頂けれる。しかもそれが真である証拠にです、それに伴う所のおかげが実証されてゆくという事。
 だから今日は大変広い大きな意味での信心ね、又、大きな意味での信心の心の定義というものを今日は聞いて頂いたわけですね。
 とりわけ平気な心で、いうならば、平静な心で神様へ向かう。でなかったら神へは通じない。願いある事を静かに願わしてもらう。その願いある心の中に、静かでない波打っておる、ああ、自分のような者がというような心で願った所で本当なおかげがいわば、こちらに移ってくるはずがない。例えばそれが、田【 】の水であっても、きれいにしておれば、手をもっていけば、手が写る、顔をもっていけば、顔でもいわゆる水鏡がでける。どんなに清らかというても、小波が立っておっては、影がくずれてしまうような道理です。
 だから、その自分の心の中に、いつも平気でおれれる平静でおれれる心の状態を、求めていく事なのですけれども、合楽ではその手立てをです、深い広い意味あいで説いておるという事を皆さん、そういう勉強をさせて頂いておるという事を今日は分かって頂きたい。
 私共は、いわば頂いておる教えは決して常識的なものではありません。道徳的なものではありません。ただ可哀相というて、その可哀相がかえって仇をなすような、可哀相は本当な可哀相ではない。本当の神心を説いておるのが合楽理念だというふうに思います。
  どうぞ。